<丹敷村の神の息>
大和岩雄氏のブログより
よほど切羽詰まっていたのだろう。
その後、一行は神の吐く毒気に当たって、全員意識を失ったとある。想像をたくましくするなら、おそらく丹敷戸畔の屋敷には、朱
(硫化水銀=丹=に)があったのだ。彼らはそれが朱であれば、加熱したら水銀が取れると聞いていた。そこで朱を皿に盛って火にかけた。おそらく外から見られないように密室で実験しただろう。亜硫酸ガスと水銀蒸気が立ちこめ、全員が気絶してしまった。
そもそも水銀という元素は硫黄分との親和性が強く、酸素との結合力が弱いので、硫化水銀を空気中で加熱すると硫黄が外れて亜硫酸ガスとなり、水銀は金属水銀になる。これを「空気還元」と呼ぶ。水銀は常温で液状の金属だが、飲み込んでもほとんど害はない。しかし水銀蒸気は猛毒で、即死することもある。水俣では、海底汚泥などに住むメチル化菌が排水中の水銀をメチル水銀という有機金属化合物に変え、これが魚貝類を介して人間の体内に取り込まれた。有機化合物は脂肪などに蓄積しやすいからである。亜硫酸ガスも非常に毒性が高い。ごく薄い亜硫酸ガスで気道が腫れ上がり、窒息することがある。彼ら全員が死亡してもおかしくはなかった。
このとき、高倉下(たかくらじ)という人物が現れて神武たちを救う。天照大神が、地上が騒がしいので、神武たち助けるために神々のうちの誰かを遣わそうとする。だがその程度なら神剣フツノミタマだけで十分だと言われて、それもそうだと思い直し、高倉下の夢の中に現れて「明朝お前の倉の中に神剣を下すので、神武に渡すように」と告げた。高倉下は朝になると倉を開いてみた、神剣は床に逆さに立っていた。そこでそれを神武のいる所へ持って行った。神武たちは気を失って倒れていたが、高倉下が神剣を献げると意識を取り戻して「はてさて、ずいぶん長い間眠ったものだ」と言った。
高倉下の正体はさておき、神武たちははじめ吉備で稼ごうとしたが、海運業を営んでいたので、まもなく朱が鉄よりも高価であることを知った。朱は色が美しいだけでなく、木の柱などに塗ると、防虫と殺菌の効果があり、非常に長持ちする。古代には不老不死の霊薬とも思われたほどである。焼くと前述のように猛烈な有毒蒸気を出すのだが、鮮やかな朱色の物質から銀色に輝く液状の金属が生成する化学反応の不思議は、いわゆる錬金術の源泉となった。
また彼らは、朱を精製して作った水銀も見たことがあっただろうと思う。金属水銀は、古代から鉄の甕に入れて運ぶ。銅などは水銀とアマルガムになるので具合が悪く(土の甕)、鉄が最も容器に向いていたの
である。そして朱を焼くと水銀ができることも知っただろう。ただ古代日本には、まだ水銀精錬の詳しい方法を知っているものはなかった。中国からの高価な輸入品だったと思われる。何に使われたのかは分からない。銅鏡に水銀を着けて磨くと、銀色に輝く美しい鏡になるという。そうした装飾的な用途だっただろう。後代には金の精製やメッキにも使われたが、神武の頃の日本にはまだ金が豊富ではなかった。実は日本は世界でも有数の金の産地であり、江戸時代には輸出していたこともある(現在も四国から九州にかけて、中央構造線沿いに最大級の金鉱があるそうだ)。しかし古代には採鉱の技術がなかったのだ。
ちなみに、硫化物を空気中で焼くと純金属になるという性質は、水銀だけではない。銀、銅も同じような性質がある。こうした金属は、自然に純粋な金属として産出することもあった。水銀も朱の鉱脈には自然水銀が混ざっていることがある。和銅のとき発見されたのは、自然銅だった。金は銅の鉱脈に伴っていることが多く、ほとんど化合物にならないので、産出するときは自然に純金として出る。ただし金の地殻中平均濃度は2ppbという微少量である。
<丹生川の奇妙な神事>
神武天皇が丹生川上流で行ったという奇妙な神事は、水銀に関係があるかも知れない。吉野山中で出会った井光(いひか)という人物は、朱の採鉱者だという説がある。神武たちは大和入りまで、おそらく食料や女を強奪するためだろうが、激しい暴力と殺戮を行った。だがこの井光たちは殺していない。想像をたくましくするなら、神武は朱を焼いて危うく命を落としかけたことを井光に話し、井光は「焼いて出てくる毒気を水にくぐらせるんだ」というようなことを話したと思う。「水にくぐらせる?どうやるんだ」「さあ、それはわしも知らん。中国ではそうやっていると聞いただけだ」
この後、神武は奇妙な儀式を行った。椎根津彦に天香具山の頂の土を採ってこさせ、それを使って土器を作ったのだ。土器を作るというのは、あまり身分の高い人がすることではない。後代、野見宿禰が埴輪を考案し、土師氏の祖先となった。彼らは賎民身分でこそないにせよ、実際に手を汚して土器を作るのは、部民といったやや賤しい身分の人々が行っていただろう。
一体何の話だろうか、全くイメージがつかめないが、岩波古典文学大系の注釈によると、平瓮は平たい皿、天手抉は丸めた土の中央に指で穴を開けたようなものかという。また飴は、土を拳で握り固めたもの(つまり土団子)としている。厳瓮は不明。前後関係からすると、平瓮と天手抉を合わせて厳瓮と称したとも考えられる。無理に現代語に訳すと、
天皇は大変喜ばれて、この土で八十の平瓮と八十の天手抉、つまり厳瓮を造られた。それを持って丹生川の上流に登り、神々を祭られた。兎田川の朝原というところに、水が激しくたぎり落ちるところがあった。天皇は神に祈っておっしゃった。「今から平瓮を使って、水なしに飴を造ろうと思う。もし飴ができたら、武力に頼らずして天下を従わせることができるだろう」と。そして飴を造られた。飴は自然に出来上がった。また神に祈っておっしゃった。「これから厳瓮を丹生川に沈める。大小の魚が酔っぱらって、槇の葉が浮きつ沈みつ流れるように流れに従ったら、この国を平定できるだろう。そうならなかったら、ついに目標は達成できないだろう」と。瓮を丹生川に沈めた。その口は下を向いていた。しばらくして、魚が浮き上がり、流れのままに口をぱくぱくさせて漂った。椎根津彦はこれを見て、天皇にご報告申し上げた。天皇は大いに喜ばれ、丹生川のほとりにあった数多くの榊を抜いて、神々へのお供えとされた。
この記事は単にまじないか占いのようなことと解釈するのが一般的である。しかし、神武たちはこの後も戦闘を行っており、「武力に頼らずして天下を従わせることができる」という予言は外れたのである。なぜこのようなタワゴトを記録したのだろう。天手抉を「丸めた土の中央を窪ませて穴を開けたもの」とする解釈も問題である。その口は下を向いていたというからには口があったわけで、実はこれは土瓶型の土器なのではなかろうか。(この解釈に達した後、「釈日本紀」を見たら、「土瓶」と書いてあった。私のように解釈する説は昔からあったようだ)
土瓶型の土器は縄文時代からあったらしく、現代の土瓶とほぼ同じ形である。
ただしここで神武が行ったのは、土瓶を逆さにした形で、たぶんその口を長く引き伸ばしてあっただろう。丹敷戸畔の屋敷にあった朱を乾燥したまま土団子に造り、平たい皿に載せ、その上に土瓶本体をかぶせて火であぶる。そして土瓶の口を水の中に入れる。
すると有毒な亜硫酸ガスは水に溶け、水銀蒸気は冷やされて、水の底に溜まるのである。有毒成分が入った水のため、魚が口をぱくぱくさせて浮き上がる。亜硫酸ガスは還元力が強く、多量であれば水は酸欠水になる(というより、亜硫酸は水に入ると徐々に酸化されてと硫酸になる)。
つまり神武は、日本で初めて水銀の蒸留精錬装置を造ったのであろう。当時の水銀取引の実体は分からないが、中国から非常に高価な金属として輸入していたと思われるので(自然水銀もあったが、量は少なかった)、後に天皇家に大きな富をもたらす「祖業」の礎を造ったのである。
ここでの文には、火であぶるということは書かれていない。しかし、実験の成功を祝って道臣(みちのおみ)命に厳姫(いつひめ)の号を授け、また土の神、火の神などを讃えている。
実はこのときの実験は成功したけれども、中国で普通に行われていた方法ではない。神武たちも、後には中国式に変更していっただろう。
中国の技術文献「天工開物」に載っているのは、次の図のような形である。蓋には小さな穴が開いており、ここにチューブ状の取り出し管が取り付けられる。この管の先を水槽につけるのである。釜本体の横にも孔があり、ここからは火吹き竹のようなもので息を吹き込む。
息を吹き込むのは、竃内部が亜硫酸ガスでいっぱいになると、硫化物を酸素で還元するという原理であるから、それ以上蒸留が進まない。そのため、空気をどんどん送り込む必要があるからである。上蓋に取り付けたチューブは、一回ごとに壊して、内部に残留する水銀も回収したのであろう。丹生神社などの水銀遺跡では、このタイプの釜が出土しているが、チューブは出ていない。
このタイプであれば、水銀含有量の少ない(低品位の)朱でも、効率よく水銀を取り出せるという。しかし有毒ガスが充満する釜の中に息を吹き込むのであるから、危険な作業であった。別項で初期天皇の在位年代について考えてみるが、書紀では異常な長寿命に書かれている初期天皇は、実際はむしろ異常な短命だったのではないかと思われる。
なお上記は松田壽男氏の名著『古代の朱』(ちくま学芸文庫2005年)を参考に書いた。
まとめると、初期天皇家は水銀の採掘と精錬に携わり、当初は微賎のものとされていた。しかしその中で富を蓄え、数代後には大和
を支配するまでになった。この時点で改めて初代の神武が神格化された。兄も船も失って山中を彷徨うという破滅状態から身を起こし、ついに大和最大の豪族になった経緯が長く語り伝えられたのだろう。
貧窮のどん底にあった人物でも、後に一族繁栄の基礎を築いたな
日本書紀斉明六年三月条に、そういうエピソードが出ている。粛慎(みしはせ)を攻撃する前に、海辺に贈与の品を積んで様子を見ていたところ、粛慎の一団がやってきて、いったんは受け入れるそぶりを見せたものの、やがてすべて返して寄こした。そこで戦闘に踏み切ったとある。もし彼らが贈与の品を喜んで受け取るなら、交易あるいは取引が可能であり、それは結局友好的な関係を結ぶということである。
と書かれておりました。
水銀については弥生時代の甕棺などから発掘されることが有る。
エジプト文明にも早くから使用されており。
秦の始皇帝陵の内にも相当あったらしい。
私も昔、三重県に在住したことがり、毎週日曜日になると多気町の丹生太師神社の近くで水銀を掘削したものである。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。