東征の意味 大和岩雄氏のブログより
書紀によれば、神武天皇は紀元前六百六十七年に筑紫(書紀編纂の頃は、九州を全部「筑紫」と呼んでいたらしい)の日向を出発し、途中安芸や吉備に立ち寄りながら、七年かかって大和の地に入った。大和入りには激しい抵抗があったが、圧倒的な武力で制圧し、天皇になったという。
古代のユダヤ人であり、旧約聖書を見ると、なるほどそうなっている。古代天皇も、弟、末弟が天皇位を継いだ記事が多いので、末子相続説にも傾聴すべき点はある。
吉備で三年間も留まっていたのは、長すぎる。本当に最初から大和を目指したのなら、せいぜい一年で足りるはずだ。「東征」の最初の目的地は、実は吉備だったのではないだろうか。吉備は製鉄王国であった。当時は、鉄に大変な価値があった。吉備で一儲けしようと考えたとしても、それほどおかしくはなかった。
つまり、この三年間は、ただの準備期間ではあるまい。収入の当てがない状態になってみると分かるが、人間は何もなしで一ヶ月生き延びるのは大変である。道ばたに食べ物が落ちているとか盗み食いが可能な環境でも、三ヶ月生きていられれば、上出来である。三年後にも船を持っていたことなどを考え合わせると、神武たちは、瀬戸内海運を営んでいたのではなかろうか。
神武たちは吾田の出身だということなので、多分阿多隼人の一族
ではなかろうか。
と書かれておりました。
上記の内容にはノーコメントとします。
東征の意味として、「日本書紀」は作り物であり、その出生を高句麗の東川王に求めたと考えます。
聖徳太子の師も高句麗の僧・慧慈である。
高句麗は668年に滅亡している。
日本書紀の「天岩戸伝説、天孫降臨説」の原点は古代天動説によることから、高句麗の文化人によるものと思われます。
もし、古代天文学が百済や新羅から伝わった物であれば、もっと早くに天文台が出来ているはずです。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。