ワカ大王の話 大和岩雄氏のブログより
古代の天皇には、しばしば「ワカ」の名のある大王がいる。開化天皇の名、稚日本根子彦大日日(ワカヤマトネコヒコオオヒヒ)、幼武(ワカタケル=雄略)、小泊瀬稚鷦鷯(オハツセノワカサザキ=武烈)などである。
<武烈天皇は少年王だった?>
<大悪天皇と呼ばれた雄略>
倭王武の上表文が宋書に載っていて、「祖禰(そでい)自ら甲冑を貫き、山川を跋渉し」という、なかなかの名文だ。宋書に収録されたのは、中国人も「立派な文章だ」と感心したからだろう。これが倭王武の書簡であるからには、当然彼は「倭王武」または「倭武王」と署名したのだ。立派な漢文が書けるのに、自分の名前だけは漢字で書けなかったはずはないからだ。では稲荷山鉄剣銘では、彼の名はどう表記されていただろうか。ワカタケルと仮名で音書きされていたのではなかったか?
隋書の「日出処の天子」は、阿毎多利思北孤と仮名で書かれていた。中国人に意訳してもらわなくても、そういう書き方もあったのである。
雄略紀には、もう一つおかしな点がある。悲劇の斎王、栲幡皇女(たくはたのひめみこ)の事件である。
彼女が伊勢にいたとき、阿閉臣(あへのおみ)国見という人物が讒言して、廬城部連(いおきべのむらじ)武彦が、皇女を妊娠させたと告げた。武彦の父は非常におそれ、息子を殺してしまった。天皇は皇女を尋問したが、「私は知りません」と言って、何も答えない。彼女は夜、ひそかに神鏡を持ち出して五十鈴川のほとりに埋め、首をくくって死んだ。皇女の行方を捜すと、神鏡の埋まっている地面から虹が立ち上っていて、そのそばに皇女の死骸があった。解剖してみると、腹の中には水があっただけで、妊娠はウソだったことが分かった。武彦の父は早まって息子を殺してしまったことを後悔し、讒言した国見を殺そうとしたが、国見は石上神宮に隠れた。
この事件は、雄略三年に起こったとなっている。栲幡皇女はまたの名を稚足姫皇女(わかたらしひめのひめみこ)ともいうが、その母は韓媛(からひめ)といい、円大臣(つぶらのおおおみ)の娘である。円大臣は、安康天皇を殺した眉輪王(まよわのおおきみ)を
かくまったので雄略に攻められ、「娘(韓媛)と領地を差し上げよう」と命乞いしたが、殺されてしまった人物である。その後で栲幡皇女を産んだとすると、雄略三年にはまだ赤ん坊で、妊娠騒ぎなど起こりようがない。
おそらく雄略の年齢自体が偽りで、系譜にも混乱があるのだろうが、意味が全く分からない。総じて日本書紀では、男系のつじつま合わせに熱心で、女性の年齢がデタラメになる傾向がある。この事件などはどう考えても収まりが悪い。群書類従の「斎宮記」や「二所太神宮例文」には「白髪内親王」という名で記されているのも、何だか怪しい。白髪という言葉が名前に付いているのは、清寧天皇の諡(白髪武広国押稚日本根子天皇)だ。生まれながらの白髪だったため、不思議だというのでこの名になったという。少し後代の仁賢紀には手白香皇女の名が見え、手白髪とも書かれる。継体天皇の正后となった女性で、もちろん斎宮ではないが、名前の類似は気になる。ただし岩波古典文学大系の注には、「タシラカは水を入れる大きな容器をいうらしい」とある。
この雄略の諡、大泊瀬幼武天皇(おはつせのわかたけのすめらみこと)も、彼が若くして没したため、幼名がそのまま残ったのではないか、と疑っているのである。そのつもりで見ると、雄略の「事績」には、幼稚な行いや軽率の振るまいが多いようだ。
たとえば雄略七年、小子部スガルに命じて三諸岳の大神を連れてこさせたら、それは怖ろしい大蛇で、天皇が斎戒しなかった無礼を怒り、雷鳴と稲妻を呼んだので、天皇は怖れて宮中に逃げ込んだというエピソードがある。子供っぽい好奇心だったと読めなくもない。
また九年の三月に、雄略は新羅に親征しようと考えたが、神が「行くな」といったので、取りやめたという。これなども雄略がまだ少年だったので、群臣が身を案じて引き留めたと考えられなくはない。もっとも、皇位争いがあった後で、まだ政権が安泰でなかったとすると、都を明けること自体が危険だったかも知れない。
允恭天皇は皇子、皇女が多かった。また雄略にも子供の数が多い。允恭の息子は、雄略を除くと殺されたり、軽皇子のように素行が悪くて系譜から除かれたりして、ほとんど消えてしまう。雄略の子も
清寧天皇および仁賢の正后となった春日大郎皇女を除くと、殺されたり自殺して消えている、雄略の正統性が疑わしいからそうなったのか?
日本書紀を読む限り、雄略は天皇直系で、何も怪しい要素はない。むしろ雄略に殺された市辺押磐皇子(いちべのおしわのみこ、またはおしはのみこ)の方が傍系になっていて、殺される理由がないような気がする。ただ雄略がまだ幼かったとすれば、もう成人していた市辺押磐皇子に人望が集まった可能性はある。
ところで允恭および雄略天皇がもし若くして没したとすれば、子供の数が多すぎるように思う。大部分が正史から消えていったにせよ、果たして本当に彼らの子供だったのか、という疑問がある。たとえば雄略の兄弟には酒見皇女という妹がいたが、この女性はその後どうなったのか、全く不明である。その女性が稚足姫皇女という名前で登場していたら、雄略とほぼ同じ年齢ということであるから、妊娠騒ぎも起きたかもしれない。もっとも、それを証明することは不可能である。
と書かれておりました。
日本書紀は万姓一系と世襲相続の思想で貫かれております。
そのため、易姓革命がおきていてもそれを隠しているため、
日本の歴史の古墳時代は謎となっているのです。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。