欽明天皇紀の疑問点
大和岩雄氏のブログより
日本書紀によると、欽明代に新羅が任那日本府を滅ぼし、天皇は百済救援軍を送ったが、屈辱的な敗北を喫したとある。この記事を読むと、日本書紀には古事記とは違った性格があることを示している。古事記は基本的に天皇礼賛の意図で貫かれており、雄略、武烈両天皇の悪
行記事もほとんどない。もちろん欽明の敗戦記事もなく、ひたすら子孫の系譜を書き連ねる。それに対し、日本書紀はできるだけ正確な歴史を書きとどめようとしているかのようである。
すでに述べたように私は「日本≠倭」と思っているが、それは旧唐書にそう書いてあるからだ。中国としては日本からの使者が「日本から来た」と名乗っても、倭人であることは明らかであり、「日本≦倭」と認識するのが自然であった。それなのに「日本≠倭」と考えたとすれば、それは使者が「倭から来たのではない、日本である」と言ったからに違いない。
そのつもりで見ると、欽明紀の記述にはあきらかにおかしい点がある。天皇は援軍を送ったように読めるのだが、実際に百済で戦っていたのはもっぱら韓地で生まれたいわゆる韓子(からこ)と筑紫勢力であり、大和からの派遣軍に違いないと思われる人物は、ほとんど登場しないのである。
と書かれておりました。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。