<古事記の編纂方針>
大和岩雄氏のブログより
古事記の編纂方針は、
1. 大物主神こそ天皇家の最高神であるという主張
2. おおむね日本書紀の天皇紀配列に従った「歴史」の記述
3. 氏族の系譜を詳細に記す
といったものであっただろう。
1.大物主神こそ最高神である
古事記は、崇神天皇以降、天照大神について、ほとんど無視している。日本書紀に比べると、唖然とするほどの違いである。
、書紀にある倭迹迹日百襲姫命の大物主神伝説と似通った「三輪山伝説」を展開する。
書紀に登場する倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメのミコト:読みにくい名前だが、やまと・ととび・ももそひめの中央の「ととび」を「鳥飛び」と解釈して読むと、それほど読みにくくない)の話はこうである。彼女は、毎夜正体不明の男性の訪れを受けていた。ある日「あなたに昼間お目にかかりたい」と言ったら、男は「では明日、お前の櫛を入れる箱の中にいてやろう。その姿を見て驚くのではないぞ」と返答した。ところが、姫が櫛の箱を開けたところ、そこにはきれいな小蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。すると蛇はたちまち美しい男の姿になり、「よくも私に恥をかかせたな。以後は絶対に会わん」と言って、空に上って三輪山目指して行ってしまった。姫は「ああ」と後悔してどすんと尻餅をついて座り込んだが、たまたまそこに箸があり、陰部を突いて死んでしまった。姫のために大きな墓を築き(昼は人が造り、夜は神が造った)、それを箸墓と言う。
一方、意富多多泥古の所伝はこうである。意富多多泥古の数代前の先祖に活玉依比賣という美しい女性がいた。そこに夜な夜な美男子が通ってきた。程なくして妊娠したので、父母が怪しみ、「その男の衣の裾に針を刺して、麻の糸をつないでおけ」と言った。朝見ると、その糸は鍵穴を通っており、その先を追うと三諸の山だったので、男はこの山の神であることが分かった。残ったのは麻糸の三つの輪だけであったので、その山を三輪山と呼ぶ。云々。
似ているようで似ていない。この二つの話の共通点は、男が三輪
山の神だったらしいことだけである。このタイプの説話を神婚説話と呼び、他の氏族にも起源伝承には同じような話がたくさんあったものと思われる。
たとえば息長氏と関わりの深い三上氏は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の子孫となっている。しかしこの神は近江の三上山の神である。また天之御影神という別名もあって、播磨国風土記や、丹波の伝承にも同じ名前が登場する。たいていは崇拝されたらしい山の山頂に鎮座しているので、類似した神婚説話があったであろう。
また神武天皇の正后であった姫蹈鞴五十鈴媛は、ある夜母のもとにやって来た事代主神(書紀本文の説:一説には大物主神とあり、古事記は大物主神説)が産ませた娘という。「山城国風土記」逸文の賀茂社の説話も、神の名こそ違え、これによく似ている。
大物主神は蛇体だという説は、雄略紀にもある。天皇が「大物主神をこの目で見たい」と言ったので、小子部連スガルが宮中に連れてきたが、それは恐ろしい大蛇で、雷鳴と稲妻を呼んだので、天皇は驚愕して宮中に逃げ込んだというエピソードがある。
ただし白河本旧事紀によると、実際は神が姿を見せたのでなく、「人皇の分際で神を呼び付けるとは無礼な」と怒った神が、代理の使者として大蛇を送ったという。白河本旧事紀ではこの後も宮中に現れて、たびたび天皇の行いを責めることがあった。
白河本旧事紀は、日本書紀を丸写しした部分も多いが、古事記にも日本書紀にもない異説が見られる。全体としては伊勢神道の影響が色濃く、たとえば月読尊=豊受大神と明確に記してある。陰陽五行説や仏教用語だけでなく儒教色も表れており、平安時代以降に成立したものだろう。しかし、すべてその時その場ででっち上げたものとも思えない。熊野三山の起源説話や「欠史八代」の天皇紀にある記事などは、初めて読んだときにはずいぶん奇抜な印象だったが、実は類似の話が他の形でも伝えられている。
日本書紀が完成してから、『古語拾遺」のように、「遺(も)りたること」を書き留めておこうとする動きが各氏族の間に広がり、古事記や先代旧事本紀が書かれたというのが、私の推論である。
天武天皇の代には、伊勢神宮の大規模な修造工事が行われたと
いう。斎宮殿もその時着工されたのだろう。また宮居が傷むのを憂慮して、遷宮の制度を定めた。天武の皇女の多くが斎宮になったが、最初の大来皇女(おおくのひめみこ)は、初瀨で潔斎した。この時はまだ斎宮殿が完成しておらず、既存の神社を斎宮として行ったのだろう。斎宮なる存在は、用明天皇の皇女酢香手姫が推古三十年に退いた後、およそ五十年の間途絶えていたらしい。天照大神と神武天皇を特に尊んだ天武天皇にとっては、復活が急がれるべき制度であった。
だが多人長の頃はどうだっただろうか。もう古代の神は主役の座を降り、国の宗教は、仏教が中心になっていた。天武の定めた伊勢の遷宮と斎宮の制度は生きていたし、新たに登場した八幡神という強力な神を天皇家では伊勢の神以上に崇めていた。これら大神たちと仏の間で、大三輪の神は目立って凋落したのである。多氏にとっては、まさに悲憤慷慨、血涙下る時代だったのだ。
そう考えると、伊勢神宮についての記述の乏しさ、仏教登場の頃から後の古事記の記事がほとんど何もないことは、納得できる。たぶん古事記編作者には、「昔は大物主神こそ天皇家を守る中心の神だった」という主張が重要だったのだ。それはもちろん、多氏の家系にとって、大物主神が最も大切な神だったからである。古事記の編作者は、多人長である可能性が高いと思う。彼が多氏の伝承を中心に、日本書紀に漏れた、あるいは軽視された各氏族の伝承をまとめたのが古事記だったのだろう。
コメント
蛇信仰の中に白蛇又は青大将が出てくるが、これは間違いではなかろうか。蛇信仰は本来鉱物採取であり、マムシのはずである。
もう一つ出雲の竜宮の使いは背黒海蛇であり、コブラ科の海蛇である。どちらも毒蛇である。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。