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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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書紀編纂の頃

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書紀編纂の頃
大和岩雄氏のブログより
 書紀編纂の頃は、昇殿を許された人たちならば、天皇を直に見て物を言うことができた。持統天皇がその六年の三月、伊勢参りをすると言い出したとき、中納言大三輪高市麻呂は「農事多忙の折りですから、そのような物入りはすべきではありません」と反対した。真相は「伊勢よりも三輪山に参詣すべきだ」と主張したとも言われる。天皇はそれでも伊勢参拝を強行した。大三輪高市麻呂が罰せられた形跡はない。しかし彼は不満のあまり、職を辞してしまった。後に復官運動をしたらしいが、さすがに中納言という高位には戻れなかった。
<穂積臣の批判?>
 唯一書紀への批判らしいことが記録に表れているのは、養老六年(723年)正月(年)、穂積臣(ほづみのおみ)老(おゆ)が天皇を名指しで批判して斬刑に処せられることになったという記事である。ただし減刑されて佐渡へ流罪になり、後には流罪も解かれて都に復帰を果たしている(彼は書紀講筵に参加したかどうか定かでないが、学殖ある人物で、独力で日本書紀を読んだのだろうと思う。当時はまだ第一回の書紀講筵が終了していない。自分で最後まで読み切ったのである。都に復帰できたのも、その学殖が買われてのことであると思う)。
 老という名前から、現代人の思う老人のイメージを持ってはいけない。前にも述べたが、戦前までは、老と若とでは老の方がいいイメージだった。穂積臣老は正五位上であり、穂積氏の出世頭であったろう。当時の朝廷は藤原氏を重用し、穂積臣老も藤原宇合に官位で追い越された。それはもちろん面白くなかったに違いないが、それだけで天皇を痛烈に批判することは考えにくい。藤原氏は特別なのである。他の人物に比べると、穂積臣老の出世スピードは、かなり速いほうであった。事件の十二年前には副将軍にも任ぜられている。斬刑に処せられるというのは、よほど痛烈な批判だったのだ。
 それは、穂積氏の最も大切なことが書紀に漏れていたからではないだろうか。穂積氏は熊野の神官の家系であるから、やはり熊野大社にまつわることだったと思う。熊野大社は二カ所あり、一つは出雲大社との関連をあれこれ推測されている島根県の熊野大社である。穂積氏が関係しているのは紀伊の熊野三山である。穂積氏は大族であり、熊野を起点に全国に広がり、その直系の子孫は鈴木氏だったらしい。もっとも、鈴木氏の本家は昭和年代に絶えてしまったそうである。
 紀伊熊野大社の起源や祭神については諸説あり、確かなことは分からない。おそらく最も古い伝承は、高皇産霊尊を祭ったというものであろう。白河本旧事紀には、神武五十八年、熊野山中に高皇産霊尊が顕現したので、熊野三山を開いたという記事がある。熊部血伐狭田(クマベノチチサダ?)命という猟師が熊を追って山中に入ったところ、櫟(いちい)の枝に満月のようにまん丸な、明るく光るものがある。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「私は高皇産霊尊だ」と名乗った。この神は筑紫の日子山(英彦山)、淡路の弓玄羽山(諭鶴羽山)を経て紀州の山中に到ったというので、神武が天村雲命に調べさせると、その通りだった。天皇は大いに喜び、改めて狭田命と天村雲命をその櫟の木の下に向かわせたところ、月は三つあった。高皇産霊尊の他に、伊弉諾尊と伊弉冉尊がいたのである。そこで熊野三社を建ててこれらの神を祭った。この熊部血伐狭田命が紀州の穂積臣の祖先となった。
  何はともあれ、この穂積臣老の一件を除けば、書紀は特別な批判もなく、各古代豪族に受け入れられたようだ。なお穂積臣老は日本書紀を批判したのでなく、天皇を「名指しで批判した」ということが罪に問われたのである。原文は「乗輿(じょうよ)を指斥(ししゃく)す」となっていて、天皇の乗る輿を指さして非難したという表現である。呪詛に等しい行為と見なされたのであろう。
と書かれておりました。
コメント
徐福伝説を訪ねて紀伊熊野大社に行ったことが有ります。
その時の開山は確か「3,4世紀頃、色の黒い人が海難事故に合い村人に助けられ、その人が仏教を開祖した。」と書かれていたような気がしました。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。


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