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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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「日本」国号の始まり

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<「日本」国号の始まり?>
 日本書紀では、大和朝廷の初めを中国の東周の初めに置く。それは中国文献における最も古い倭国記事に合わせたからだろう。
『周の時、天下太平、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず』
 つまり日本書紀は、このときすでに『倭』は日本であったと言っているのだ。もっとも、この記事は周の成王の年代のこととされており、神武即位に設定された時期より数百年前のことだ。現代の歴史観からすると、東周はもう周代でなく、春秋戦国である。しかし名目だけにせよ、周王朝は存続した。最終的に滅んだのは、秦が中国を統一したときのことである。書紀編纂時から見ると、大変な古代だ。当時の人々には、秦を数百年さかのぼればもう周代だという認識しかなかったと思う。
 倭と日本とはずいぶん国としての性格が違う。日本からの最初の使者は、その意味でも言動が違っていた。中国と対等な国として国交を結ぼうとしたのだ。『自ら矜大』というのは、そのことだったのかもしれない。
 私は当時日本が倭国を併呑して、初めて倭人の国の統一政権を樹立したので、かなり意気軒昂だったのだろうと思っている。詳しくは別に論ずるが、中国の冊封体制の中で一つの国として承認されたいのでなく、中国帝国の外にある別の国として友好的な関係にありたい、という意志があったのだ。
  日本書紀の編纂目的については、あれこれ論じられてきたが、おおむね「古代部分はすべて書紀編纂者による造作」と見なす立場から、天皇家の正統性を「証明」するため、あるいは国民に嘘八百を信じ込ませるため、という見方をする向きが多い。
 だが天皇家の正統性が、一冊の歴史書で証明できるだろうか。あなたが古代貴族で、日本にまだまとまった歴史書がない状況にあるとする。そのとき天皇から「天皇家の正統性を証明するようなウソで塗り固めた歴史書を造れ」と命じられたら、何を考えるだろうか?「そもそも天皇家の正統性に疑義を呈するのは誰で、その論拠は何か?」ということから調べるだろう。天武の正統性については、議論があってもおかしくない。だがそれに答えるために歴史書を作る必要があるだろうか?壬申の乱が片付いた後に、誰かが天武天皇に向かって「お前は簒奪者だ」と言ったのか?
 国民に嘘八百を信じさせるというのは、明治時代の皇国史観教育のことを言っているのだろうが、平安時代までは、日本書紀はそれほど誰でも知っているものではなかった。日本書紀完成の翌年には、書紀講筵という催しが開かれた。希望者を募って日本書紀を読み聞かせ、詳しく説明するのである。これは貴族の子弟が主な参加者だった。江戸時代には庶民でも読むことが可能になったらしいが、すぐに書紀のここがおかしい、あそこがおかしいという議論が出て来た。「無知な大衆」はどんな嘘八百でも信じると思うのは、迷信に過ぎない。むしろ彼ら(大衆)は「公式にコレコレこうとされているのはウソで、真相はこうでしたよ」といった情報に惹かれるものである。
 日本書紀を天皇家の大陰謀による創作物とする説では、「造作と考えるとつじつまは合う」というので、あれも造作、これも造作と言っているが、そのために造作者が不自然に大きな創作力を持たされているような気がしている。「みんながデタラメな歴史をむりやり信じさせられるところをボクは確かに見たんだ、」と言うだろうが、それは明治以降、戦前の皇国史観教育の下でのことである。日本書紀成立の当初もそれと同じ状況だったかどうかは、はなはだ疑わしい(戦前でもみんなが日本書紀を信じていたとは思わない。おかしいと思っても、口をつぐんでいた人の方が多いのではあるまいか)。
<信じてもらえた粟田真人>
 粟田朝臣真人は中国に全面的に信用されたが、彼が遣唐使に任命されたのは大宝元年(701年)正月のことである。天武十年(601年)三月に始まった国史編纂の大事業もすでに二十年経って大筋はできあがり、完成間近であったと思われる。彼はおそらく遣唐使に任ぜられてから、編纂中の「日本の歴史」に目を通しただろう。当代超一流の知識人でもあり、部分的には彼の方から編纂者グループにアドバイスするようなことがあったかも知れない。そのため、中国が満足するような歴史の説明ができたのだと思う。それこそ書紀編纂の主目的であった。
 日本書紀の完成は養老四年(720年)六月のことで、粟田朝臣真人の遣唐使はまだ編纂の中頃じゃないかという人があるだろう。しかし私は、編纂期間の前半には大筋を決定し、主要な史料を配列して、骨格がほとんど出来上がっていたと思う。後半は、漢籍を参照して文章を整えたり(これを「文飾を加える」という)、「一書に曰く」のように資料間に齟齬や不一致があれば、もっと多くの資料を収集探索するなどの作業があっただろうという気がする。
 外交上の目的や国内政治上の目的があったにせよ、歴史書の編纂者たちが、そうした目的だけで歴史を考えたとは思えない。やはりそこには知的好奇心があったはずだし、疑問点があれば追求せずにはいられなかっただろう。。
 古事記の方が古いと思っている人には変に聞こえるだろうが、古事記は日本書紀のおよそ百年後に忽然と現れた書物である。「それまで閲覧を禁止されていた」などと言っている人もあるが、禁書だったという理由もない。現れてからは、全く自由に読まれている。それまで存在しなかったと考える方が理にかなっている。
 
 それはさておき、日本書紀のおかげでその後唐から疑われることはなくなったのだとすると、一定の役割は果たしたことになる。現代の歴史家も、「倭=日本」を前提としている。だがそれでは、なぜ旧唐書にあるように、中国が「日本は倭国の別種なり」と疑ったのか、説明は付くまい。歴史家達は「ちょっと誤解されただけ」と軽く見ているが、私は重大問題だと考える。日本国成立を中国から承認してもらえなかった数十年間は、日本にとって苦悩の時代だった。それが推古代に始まり、粟田朝臣真人の遣唐使まで続いていた。やはり国運をかけた大事業だったと思うのである。
と書かれておりました。

コメント
「大宝元年(702年) 粟田朝臣真人の執刀使節団の目的は
中国と対等な国として国交を結ぼうとしたのだ。」というのには大いに賛成するところである。
そのために、「日本とは、どのような国であるかを示す大宝律令」と「どのような建国神話を持つ国かを示す日本書紀」を持参したと思われる。
つまり、日本書紀は702年にすでに完成していたのである。
書類が無ければ相手が信用しません。
このようなことは当たり前である。
ここでは、粟田朝臣真人の執刀使節団は信用されたと書いていますが、実際は大恥を掻いて帰国したのです。
その理由は大宝律令に描かれている太極殿の配置図にありました。
当時の日本の陰陽五行説は都城の中心ですがこれをただ北側に移動しただけでした。つまりただのパクリだったのです。


当時の長安の都城は天文陰陽五行説に従い太極殿は朱雀通に向かって北奥の右側に創られていたのです。
つまり日本では公には星座観測はしていなかったのです。
そして、建国神話である「天岩戸伝説や天孫降臨説」は古代天文学では有名な話であり相手側にも当然、天文学を習得している官僚がいたのです。
相手も国の使節相手ですから露骨な発言はしてきません。
影でこっそり教えてくれたのでしょう。
これで判るように日本書紀の真の製作者(総監修)は粟田真人となります。
太安万侶はペンネームでしょう。
日本書紀制作にもう一つの問題があります。
それは藤原不比等です。この不比等を相手に戦わなければなりません。お判りになりますでしょうか。
そうそう、太安万侶のお墓があるようですが、あんなちんけなお墓では、当時の国家事業である日本書紀の仕事を行った人のお墓では粗末すぎます。
これは私・小島佐則の見解です。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。
 


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