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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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サーサーン朝   3

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サーサーン朝   3 Wikipediaより
3歴史
o    3.6最盛期
o    3.7滅
最盛期
カワード1世の跡を継いだホスロー1世(在位:531年-579年)の治世はサーサーン朝の最盛期と称される。ホスロー1世は父帝の政策を継承して大貴族の影響力排除を進め、またマズダク教の活動を抑制して社会秩序を回復、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避のため、軍備費用の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策に力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。
一方、東ローマではキリスト教学の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年には東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が非キリスト教的な学校を閉鎖する政策を実施したため、アテネのアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティアがキリスト教徒により異教徒として虐殺され、エジプトからも学者が数多くサーサーン朝に亡命して来ていた。この結果、ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。
ホスロー1世の狩猟図を描いた銀盤
ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地の様々な文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書写され、これらの注釈などのために各種のパフラヴィー語による『ヤシュト』もこの時期に文書化された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献など一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身となる、古代からサーサーン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ(英語版)』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。
タバリーなどの後代の記録では、ホスロー1世の時代から(おもにホスロー2世の時代にかけて)ギリシア語に翻訳されていた古典の天文・医学・自然科学などの諸文献がパフラヴィー語(中期ペルシア語)へ大量に翻訳され宮廷の図書館へ収蔵されたことが伝えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面のサンスクリット諸文献も積極的に移入・パフラヴィー語訳が作られたという。(この時期のインド方面からの文物の移入については、例えば、チェスがインドからサーサーン朝へ移入された経緯が述べられているパフラヴィー語によるシャトランジの歴史物語『シャトランジ解き明かしの書(ペルシア語版)』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼に仕えた大臣ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン(英語版)(ペルシア語: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写: Bozorgmehr-e Bokhtagan)の話である。)
5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝(英語版)などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置くようになった。
ホスロー1世は、ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが588年の第一次ペルソ・テュルク戦争(英語版)で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土の拡張は一部に留まった。569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 (572年-591年)(英語版)を引き起こすことになった。
滅亡
600年前後のサーサーン朝周辺
ホスロー1世の死後、息子のホルミズド4世(英語版)が即位。590年にクーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子ホスロー2世(英語版)が即位したが、東方でバフラーム・チョービーン(英語版)の反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。ユスティニアヌス朝のマウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、602年に当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げて東ローマ・サーサーン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にヘラクレイオスのクーデターで殺害されヘラクレイオスが皇帝位に即き、ヘラクレイオス朝を興した。
連年のホスロー2世率いるサーサーン朝軍の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後から劣勢となり、613年にはシリアのダマスカス、シリア(英語版)、翌614年には聖地エルサレムが陥落した(エルサレム包囲戦(英語版))。この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。
615年にエジプト征服(英語版)が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争(英語版)が起こった。621年にサーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアを占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴまで逃亡を計ろうとした。
しかし、622年にカッパドキアの戦い(英語版)でヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。サーサーン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争(英語版)も起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される(コンスタンティノープル包囲戦(英語版))。
627年、ヘラクレイオスの親卒する東ローマ軍がメソポタミアに侵攻すると、ニネヴェの戦いでサーサーン朝軍は敗北し、クテシフォン近郊まで東ローマ軍の進撃を許す。ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、翌628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世(英語版)に裏切られ殺された。
ホスロー2世(英語版)を屈服させるヘラクレイオス1世。(十字架に描かれた七宝製画像。12世紀後半)
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となるヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗していた。そこに新しい宗教イスラム教が勃興しサーサーン朝は最期の時を迎えることになる。
アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ領に続きサーサーン領へ侵入し始め、633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、サーサーン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。しかし、同年のアブー=バクルの死によるカリフ(正統カリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。
641年にヤズデギルド3世はライ、クーミス(英語版)、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマルも軍営都市のバスラクーファから軍勢を招集する。642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。敗戦後エスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなりホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の唐の助勢を求め、自らが首都の長安まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。
サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。
後世への影響
後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。また、後代にはサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャフル・バーヌーがシーア派の第3代イマーム・フサインの妻の一人となり、第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンの生母となった、といったものやサファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク(1252/3年- 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。
特にアッバース朝が衰退をはじめる10世紀以降もカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝やマーザンダラーンのバーワンド家(英語版、フランス語版)(Bawandids、8世紀-1349年)などサーサーン朝時代まで遡る名家が存在しており、この地域からイラン的な習俗を強く持ったブワイフ朝が勃興しイラクやイラン高原全域を席巻した。他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したイスラームの預言者ムハンマドの一族であるハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。
と書かれておりました。

コメント

529年頃、学者が数多くサーサーン朝に移住し、東ローマ帝国やエジプトから学者が集まり、これらを受け入れて文化が向上している。

一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。

また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。

558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めた。(北アジア出身の突厥が現れている。)

今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。

 

 


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