サーサーン朝 4 Wikipediaより
4後世への影響
o 4.1自国史の編纂
自国史の編纂
公正なるヌーシルラワーンことホスロー1世が大臣ブズルグミフルのために宴席を設ける。(イルハン朝時代の『シャー・ナーメ』の1写本。1330年作成)
サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーがアラビア語で著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する「通史」としては最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主が残した碑文群やマニ教文書、パフラヴィー語による行政文書などの史料群、パフラヴィー語、シリア語、ギリシア語、ラテン語などの年代記、通貨などにより歴史や実態、文化などが研究されている。
パルティア語やパフラヴィー文字碑文などはサーサーン朝の草創期から存在しているが、現存するゾロアスター教文献などによると、本来古代のイラン世界では文字は音声を物質化した賎しむべきものと見なされていたようで、古代からの伝承は神官(マギ)などが口伝によって代々受継がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世の時代からこの世の至上の君主であるサーサーン朝の君主の許で、世界中の知識を集積しようというイデオロギー的な動きが見られ、ゾロアスター教文献などもパフラヴィー文字を改良したアヴェスター文字などを作り出す事によって文字化する契機が生まれたと考えられている。これに関連して古代からサーサーン朝時代までの歴史も編纂する動きがあったようで、『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)と呼ばれる歴史書が製作されたと伝えられている。これが、アッバース朝時代のタバリーなどのサーサーン朝史の原典となり、さらに後代のフェルドウスィーなどが著した歴史叙事詩『シャー・ナーメ』のルーツとなった。
そのため、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。特にホスロー1世は「公正なるアヌーシルワーン」(「不滅なる霊魂」を意味する中期ペルシア語、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来するアラビア語の訛音)とも呼ばれ、統治者・君主の模範として仰がれた。ペルシア語の通用したアナトリアやイラン高原以東の地域では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他に、ホスロー2世(英語版)を題材にしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア語文芸とともにサーサーン朝時代についての知識が受容された。
と書かれておりました。