三国時代から新羅統一まで
檀君建国-箕子朝鮮-衛氏朝鮮の後ち、前漢による四郡設置である。この植民地が現平壌やソウルあたりの半島主要部を支配・経営している頃、周辺地域では諸族が古代国家に向けて成長していっていた。南満州の扶余(ブヨ)、そこから分立したと言われる高句麗の二国が北にあり、半島東部には沃沮(オクチョ)や東ワイ(トンイェ)があった。そして半島南部には辰(チン)が成長していた。そこからは三韓(馬韓・弁韓・辰韓)が、さらに百済・加羅(駕洛)・新羅が登場する。
後漢の衰えとともに、特に高句麗の活動が活発になり、燕地-遼西(遼川西域)-遼東(同東域)-朝鮮領を結ぶラインで激突が始まる。後漢末の豪族・公孫氏、それに替わった魏、次いで晋も、楽浪郡南部を帯方郡に再編するなど維持・再建に努めたが、313年ついに高句麗によって中国植民地は滅ぶ。こうして満州東南部から半島北部までを領有することになった高句麗の前に現れたのは、半島南西部の馬韓領域を統一した百済、そして南東部の辰韓領域を統一した新羅であった。この三すくみの情勢を三国時代と言う。
中国植民地の時代がわが列島では弥生時代におよそ相当する。そしてこの三国時代は古墳時代にほぼ平行してあり、676年の新羅による統一で終結する。当初、最も強大な高句麗が優勢で、倭国は加羅(任那)問題や百済支援などで、渡海して高句麗とも戦ったという。しかし実はこの三国時代は中国の混乱がそれを可能にさせたものであった。強国・高句麗の背後に、ついに統一を成し遂げた隋、さらに唐が迫る。
結局、半島を制したのは唐と連合と結んだ新羅であった。この情勢を受け、わが国では645年に大化改新が起こり、663年には百済救援のため援軍を送るも、白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫して、とうとう百済は滅亡する。わが国ではさらに672年に壬申の乱と激震が続く。668年には、高句麗も連合軍によってついに滅亡。新羅は植民地再建を画策する唐を果敢に半島から駆逐し、676年に半島を単独統一する。
と書かれておりました。
コメント
紀元350年代頃(日本では謎の四世紀とよばれている)は大陸、半島では五胡十六国時代と言われ、大きな勢力として匈奴系劉氏と鮮卑系慕容氏の二大勢力の争いがあり、この後の時代の隋や唐の出自が鮮卑族である。つまり東アジアの基軸は慕容氏の活動だったと思われるので、この活動が判らないと東アジアの歴史は紐解けないと思われる。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。
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