満州民族(満洲民族、マンジュみんぞく)、満州族(満洲族、マンジュぞく、満州語: ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴᠰᡠᡵᠠ 、転写:Manju uksura )は、満洲(中国東北部、沿海州など)に発祥したツングース系民族。古くは女真族といった。17世紀に現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。同系のツングース民族にオロチョン、ウィルタ、ナナイ、エヴェンキ、シベがある。2010年の中国の国勢調査では1,038万人とされ、中国に暮らす55の少数民族では、チワン族・回族に次ぐ人口である。
概要
「満州」の漢字は満洲語の民族名Manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」と表記されていたが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い。
満洲民族の起こった地域は、西欧では満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、漢語ではこれに対応して満洲と呼ばれる。このため、特に民族のことを指す場合は、満洲民族・満洲族・満洲人・満人などと表記する。「ラストエンペラー」で知られる清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満州族の出身である。
現代は、中華人民共和国の55少数民族の一つという位置付けをされている。1911年の辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受け、1949年の中華人民共和国の成立後も他の少数民族とは異なり自治区や自治州は認められて来なかった。現代にあっても、中国の支配層を構成する漢民族は近代以前に満洲民族の清王朝に支配されたという歴史的屈辱や、日本の支援で満洲国という形でその悪夢が再現したという歴史的経緯から、満洲民族の民族的覚醒を警戒し、そのために満洲という言葉には敏感である。また彼らは満洲族ではなく満族(まんぞく, măn zú, Manzu)と呼ぶ。
かつて中国を支配した清朝旗人の末裔であり、中国全土に散在する。満族の過半数は、遼寧省に居住しているが、河北省、吉林省、黒竜江省、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、甘粛省、山東省にも分布し、北京、天津、成都、西安、広州、銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満州語だけで記されているが、漢族との同化が進み、満州語は危機に瀕している、2013年現在、中国国内で満州語を解し、古文献も読めるレベルの学者は10名ほどにすぎない。
清朝発祥の地といわれているのが遼寧省の撫順市の新賓満族自治県である。しかし、そこにあっても満州民族の小学校は1校しかなく、満州族固有の姓を用いる児童もいない。
清朝時代の満洲民族
清朝末期の満州族の武人たち
女真人であるホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸民族を満洲(人)と統合し、国号を清と改めた。因みに、“満”も“洲”も“清”のいずれにも“さんずい”が付いているのは、五行の火徳にむすびつく“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる。多民族国家である清のもとで、満洲人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。
清は、1644年に明が滅びると万里の長城以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて中国大陸を満洲民族が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢民族が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも中国語が話されるようになり、習俗も中国化していった。
逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪や両把頭やチャイナドレスは元来は満洲族の習俗であったものが清の時代に中国に持ち込まれたものである。まず、明との戦争に際し、敵味方の区別を容易にするため、辮髪にするよう命じ、1644年の明朝滅亡後、清朝の統治者は満洲族の髪型と服装を本格的に強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した(「剃髪易服」 - 髪を剃り、服を替えるの意)。なお、一方では、それと引き換えに科挙等の明朝の制度は存続させるなど、強硬政策と懐柔政策を併用した。
満洲民族の故地である満洲は皇帝の故郷として保護され、漢民族の移住は制限されていたが、清末には漢民族の農民が入植するようになり(闖関東)、漢民族人口が急増して満洲民族をはじめとするツングース系諸民族は人口の上でも生活範囲の上でもまったく追いやられてしまった。
1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられるが、満洲国は日満蒙中朝の五民族による五族協和を理念としており、満洲国の内部において自国が満洲民族の国家として意識されていたわけではない。しかしながら満洲民族においては建国後に帝政期成運動を起こすなど、満洲国に民族の復権を期待する向きも一部ではみられた。
現代の満洲民族
第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、民族識別工作を行って少数民族を中国の内部で一定の権利を有する民族として公認した。この過程で、かつての旗人(八旗に所属した者)の後裔にあたる人々が満族(満人)とされる。
満族の人々の間では、現在はごく少数の老人を除いて満洲語を話す者は殆どおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満洲民族は、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうる。1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しているが、これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、満洲語を学習しようとする人が増加している訳ではない。しかし一方で、固有の文化を失いながらも満洲民族の民族意識はとても強いともいわれている。
満洲民族の特徴
満洲民族の姓氏は、本来、愛新覚羅等に見るように満洲語に基づいたものだったが、現代満族の多くは、中国式の姓氏を用いている。これは、清末期の滅満興漢の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、文化大革命等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、愛新覚羅は金または趙に、瓜爾佳は関に、葉赫那拉は葉または那、伊爾根覚羅は趙または佟に、紐祜祿は郎、富察は富または傅に、赫舍里は赫、何または英に、佟佳は佟に、完顔は王のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。
本来、満洲民族は漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣は無く、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は例えば「グワルギャ氏のオボイ(満洲語:Gūwalgiya hara i Oboi) 」という呼び方をしていた。
満洲民族は、清朝時代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高く、1番目の朝鮮族に続いて中国各民族中で2番目であった。1990年の人口調査資料によれば、満族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で文盲・半文盲が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国各民族中で最低であった。2007年10月現在のデータは不明。
きょうはここまで、また夢の世界でお会いしましょう。