タタール5 東ヨーロッパ
詳細は「北元」を参照
モンゴル帝国の諸政権のうち中国とモンゴル高原を支配した元は、1368年に北へ逃れて北元となったが、やがて1388年
にクビライの直系のハーンが殺害されてクビライの王統が断絶し、モンゴル高原東部の諸部族がオイラト部族連合を形成してモンゴル部族連合から分裂した。
こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国の明ではこのうちのモンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった「韃靼」と呼ぶことになった。このため明代に記された史料や
明朝の正史『明史』では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。日本では、明代の表記に従って、伝統的に明代モンゴルのことを韃靼、あるいはタタールと呼んだ。この名称の変化から、当時のモンゴル高原の形勢であるモンゴルからのオイラトの分立とモンゴル・オイラトの対立が、モンゴル部族連合がタタールとオイラトへ分裂し、対立したとして誤って理解されることも多い。
モンゴルと自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む女真(のちの満州人)はモンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼びつづけていた。のちに明に代わって満州人が立てた清は韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は「韃靼」から「蒙古」に戻った。清代には西トルキスタンに居住するイスラム教徒も含めた、北アジア・中央アジアの諸集団を指して「韃靼」という言葉が使われるようになった。
日本では、江戸時代から沿海州、アムール川流域を含む北アジア・中央アジアを指す呼称として「韃靼」の語が用いられたが、領域や実態について明確な定義は存在していなかった。中国や朝鮮では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを「韃虜」「韃子」などと蔑称することがあった。1917年のロシア革命によって国を追われたタタール人たちが日本に逃れており、彼らは日本に最も最初に入ってきたムスリムの集団とされる。彼らは日本にイスラム教を持ち込んだ最初期の集団であり、東京などに回教礼拝堂(現在の東京ジャーミイ)などを作った。
現代の中国において少数民族の一つとして認定されているタタール族は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼とは無関係である。
東ヨーロッパのタタール「タタールのくびき」も参照
ヨーロッパのキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ<※当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた>)は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。
バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ぶ。
キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んでクリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家、カンテミール家など有力な貴族となった家もある。
ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛(くびき)」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ。ロシア帝国は18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。
ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。
と書かれておりました。