天文学の歴史
ドイツの地図製作者フレデリック・デ・ウィット(英語版)17世紀作の天球図
はるか昔、天文学は肉眼による天体の観察と位置の予測だけであった。ときにストーンヘッジのような巨大な人工物がこの目的のために作られることもあり、それは儀式の舞台だけでなく、季節を知り植物の種まきをする時期を定めるために1年の長さを決定する天文台の役割を果たした。
望遠鏡が発明される前、初期の研究は肉眼でも見やすいように高い建造物の上や高地のような場所で行われた。文明が発達するとともに、バビロニア・中国・エジプト・ギリシア・インド・中央アメリカなどで天文台が建設され、宇宙の根元についての考察が発展を始めた。ほとんどの初期天文学は、恒星や惑星の位置を記す、現在では位置天文学と呼ばれるものだった。これらの観測から、惑星の挙動に対する最初のアイデアが形成され、宇宙における太陽・月そして地球の根源が哲学的に探求された。地球は宇宙の中心にあり、太陽・月・星々が周囲を廻っていると考えられた。これは、クラウディオス・プトレマイオスから名を取ってプトレマイオス・システム(天動説)と呼ばれる。
数学的または科学的な天文学は、初期段階における非常に重要な進展だった。これらはバビロニア人によってもたらされ、後に多くの文明へと展開してゆく天文学の潮流を創り上げたものだった。バビロニアの天文学では、月食が一定の期間で再度起こることをサロス周期として発見した。
ギリシアの赤道日時計。紀元前2-3世紀。現在はアフガニスタンにアイ・ハヌムにある。
バビロニアの後、古代ギリシアとヘレニズムにおいて天文学はさらに進歩した。ギリシア天文学はその初期段階から、「天球における天体の回転運動を物理的に説明する」ことを目指した点を特徴とした。紀元前3世紀、アリスタルコスは地球の大きさと、月や太陽の大きさと距離を計算し、地動説による太陽系モデルを提案した。紀元前2世紀にはヒッパルコスが歳差を発見し、月の大きさと距離を計算し、アストロラーベのような初期の天文学装置を発明した。ヒッパルコスはまた、1020個の星とギリシア神話の神々の名に由来する北半球の星座のほとんどについて、詳細なカタログを作成した。紀元前150-80年頃制作のアンティキティラ島の機械は、特定の日における太陽や月および星々の場所を計算するよう設計された、初期のアナログ計算機である。ヨーロッパにおいて、これに匹敵する制作技術の再興は14世紀の機械式天文時計の登場を待たなければならなかった。
中世の時代、天文学は少なくとも13世紀になるまでヨーロッパでは停滞し、替わってイスラム世界など他の地域で発展した。イスラムでは、9世紀初頭までに建設された最初の天文台が寄与した。964年にはアブド・アル・ラフマン・アル・スーフィーによって局部銀河群最大の銀河であるアンドロメダ銀河が天の川の中から発見され、著作『星座の書(英語版)』に記録された。1006年、非常に明るい等級で輝いた超新星SN1006は、エジプトのアラビア人天文学者アリ・イブン・リドワンや、中国の天文学者らによって記録された。バッターニー、サービド・イブン・クッラ、アブド・アル・ラフマン・スーフィニー、アブー=マーシャル、アブー・ライハーン・スーフィニー、アブーライハーン・アル・ビールニー、アッ=ザルカーリー、アル・ビリジャンディ(英国版)らイスラム世界の天文学者(ほとんどがペルシャやアラブ人)や、マラーゲ天文台(英語版)、ウルグベク天文台などは、科学の発展に大きく寄与した。彼らが用いた星の名は、おおくが現在に引き継がれている。
これらの他にも、グレートジンバブエ遺跡やトンブクトウに天体観察をする建物があったという推察もある。以前、ヨーロッパ人は植民地化される前のブラックアフリカでは天文観察は行われなかったと考えていたが、近年の発見はこの思い込みを覆しつつある。
と書かれておりました。
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