天を掘る 日本書紀の成立
日本書紀は天武天皇が息子の舎入親王に「建国神話」の作成を命令されて作成されたものとなっております。
しかし 当時の時代背景や書紀内容を検討してみますと、ちぐはぐな面が多く見受けられ、チノちゃんの考えでは天武天皇の崩御後(AD686)、持統天皇の在位中に裁断が下され、藤原不比等の横槍などがあり、実際の成立がAD720となったと思われます。
日本書紀の冒頭に書かれている神話の中で天岩戸伝説を記述した人は山田史御方であり、古事記については太安万侶となっております。
そして この物語の記述者と原作者は全く別人であると解釈されます。
この物語は民間神話や伝説などとは程遠いからです。そこでこの原作者は誰かと考えると記述者の他に山部赤人等の候補があがりますが、やはり 何といっても第一候補は山上憶良であると思います。その理由は 山上憶良は大伴旅人と親交があるからです。
この旅人の息子・家持の選歌・万葉集に この憶良の七夕歌が掲載されております。また彼 以外に七夕歌を歌っている人はいません。
時代背景を考えると天智天皇が崩御した年の7月に壬申の乱が発生し、天武天皇と鸕野鑽良(ウノノササラ)姫が皇位に就きます。
この直ぐあとに 高句麗国が唐・新羅連合に破れ(AD668)、高句麗の帰化人が日本にも流れてきます。
天武天皇は在位12年(AD686)で崩御します。
もし 天武天皇が この岩戸伝説を日本の建国神話に入れることを指示していたら ウノノササラ姫に 悠久の舞・ベガダンスを踊らせ大いに喜んだ事が記載されているはずです。
しかし この記事はみあたりません。
従って 順序としては690年以降、高句麗帰化人(詳細は後述とします)が山上憶良に提案し、憶良が舎入親王に奏上し、持統天皇が裁断したものと推察します。
その理由の一つが、天武天皇の先妻・額田王を天鈿女命(アメノウズメ =デネブ)に見立てているからです。
つまり 天岩戸伝説は 天武天皇とウノノササラ姫が新しい国家を建国した現代史を夏の大三角の軌跡に擬らえた建国神話であります。

それゆえに 史実については 史文に長けた唐の帰化人 二人を雇い、なるべく客間的に書いてもらい、不明な点は削除されています。
ご理解頂けますでしょうか。
次に この時代の近代史を考えてみましょう。 この内容は夏の大三角のお話ですが、もう一つ冬の大三角が隠れています。
これは その昔 中大兄皇子と大海皇子が額田王をとりあったかのようにみえる冬の大三角(ベテルギウス:中大兄皇子、プロキオン:大海皇子、シリウス:額田王)が暗に擬らえています。
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これは 当時 公然の秘密だったことを伏せているのです。
この冬の大三角が 当時の近代史だったのです。
今日はここまで また夢の世界でお会いしましょう。
この冬の大三角が 当時の近代史だったのです。
今日はここまで また夢の世界でお会いしましょう。