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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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展示用・7世紀中頃の東アジア天文学

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7世紀中頃の東アジア天文学
高句麗、百済、新羅の三韓時代の新羅天文学
新羅の善徳女王の時代(即位632から647年)、ドラマの中では、ペルシャからサダム(天文書)が伝わり、ソドム(天文台)を造ったり、日食や月食を算出したとする演出が行われた。
「しかし、これらは、現在の天文学で調査すると間違いであることが判明している。そして、この間違いは中国も同じであった。
 つまり、中国に伝わったペルシャ天文学が間違えていて、新羅にそのまま伝わり、丸写しであったことが判明した。」
『日本書紀』にみる日食と彗星  
著者:斎藤 国治氏 (元東京大学東京天文台教授)
別冊歴史読本 新人物往来社   より

陰陽五行・北辰説
 次に、700年に日本の執刀使節団・粟田真人が周の則天武后を訪問した時、周王朝の都城は北極星ポラリスの陰陽五行・北辰説でした。
長安のポラリスは188.190度で、天の北極より、8.19度右(東側)でした。
 そこで、このポラリスを緯度の違いで観測してみます。
各地の観測結果
観測年代AD700年、観測日3月21日、観測時間:朝4時30分
藤原京    (135°48′,34°.30′) 方位189°.016 高さ  32°.217
長安      (108°54′,34°.18′) 方位188°.190 高さ  34°.550
上海      (121°30′,31°.12′) 方位188°.752 高さ  29°.053
バンコック   (100°30′,13°42′) 方位187°.546  高さ  11°.010        
シンガポール(103°48′ , 1°12′)  方位187°.551  高さ - 0°.409

伝播ルート
上記のようにAD700年、シンガポールではポラリスを見ることは出来ません。 従って、陰陽五行・北辰説は、大陸内部から伝わってきたことを示しています。
南からの海洋ルートも活発化しているのですが、この時代,表には出てきません。 文化の中心地・長安が海から1,000km以上も内陸部に入っているからでしょうか。
玄奘三蔵と粟田真人
7世紀中国の唐初期・時代は国外への入出国は禁止していました。
そこで629年出発、645年帰還の玄奘三蔵の影響があるのではないかと考えてみました。
玄奘三蔵は、この旅で、経典657部と仏像を持ってきた。
(砂漠の中を一人で旅して、657部の経典と仏像を背負ってきたことになりますが、大げさすぎます。尚当時のインドの経典は紙や毛皮ではなく、ヤシの葉と思われます。『中国:紙の改良は8世紀』)

653年、道昭(当時24歳)は粟田真人『道灌:(当時10歳?)』と中臣真人『定慧:(当時10歳 :643から666年)鎌足の長男、不比等の兄)』を連れて、第二回遣唐使船にて入唐する。彼ら三人は玄奘三蔵(当時51歳)に師事する。玄奘は他国から来た、幼少の修行僧をかわいがり、寝起きを伴にして師事したと言われています。
新羅は640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派  
遣している。

尚 帰国した玄奘(602から664年)は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。 彼が帰国後すぐに編纂した報告書が『大唐西域記』であるが、編纂に携わったとされる弁機

の姿が見えない。則天武后ドラマの弁機では、むりであろう。

帰国後、数年を要したと思われる。
 上記文から推測すると、ほとんど弟子を取らずに自ら経典の翻訳に、努力したと思われる。
道昭、中臣真人、粟田真人の三人は僅かな弟子の一人と思われる。
当時三人は名も知られない国の貧乏留学僧であり、有名な仏教学派に、弟子入りする金もなく、伝手もなかった。
新羅などの留学僧と違い、とても唐の国子監に入学できる身分ではなかった。
そのため、実際は玄奘三蔵に拾われたのではないかと思われる。
まとめると
629年 玄奘 密出国の国禁を犯しての旅に出る。 
645年 玄奘 唐の国へ帰国(16年の修行の旅)
     国禁を犯していたので、海路では帰国できなかった。
646年 大唐西域
      一緒に経典翻訳事業に携わっていた長安・会昌寺の僧、

      弁機が 編集している
652年 大慈恩寺に大雁塔が建立される。
653年 道昭、道灌、定恵の三人、入唐する。
     三人は玄奘の弟子になる。
660年 道昭は帰国。
663年 白村江の戦いで日本大敗す。
664年 師・玄奘 寂す。  大般若経完成 100日前
665年 中臣真人は帰国。
681年頃 粟田真人頃帰国している。 唐に滞在28年
 そうなると、『大唐西域記』の編纂にも粟田真人が関与していた可能性は大きいと思われ、翻訳の書物の中に、上記のペルシャ天文学が含まれていたのではないかと考えてみました。
余談
「その訳は後世の西遊記に見られる『天上の3日は地上の300日に値する。』という考えであり、天文学の匂いを私は感じるからです。」

 *玄奘、道昭、粟田真人を見るに、僧というよりか幅広い知識の学者に思えます。学者というのは自分の信念を貫きたいという意識が強く、徒党を組んだり、派閥を作ろうとしません。
何か三人に共通するところが見えるような気がします。
尚『大唐西域記』も後世(宋代)の「西遊記」で、有名になったのであり。
唐の時代では無名と思われます。

                           以上


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