ケルトと宗教 Wikipediaより
当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。 初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。
ブリテン島のケルト人の間では、4世紀にはキリスト教が根づいた(ケルト系キリスト教)。5世紀になると、アングロ・サクソンなどのゲルマン人が侵入したせいで、ケルト人キリスト教徒はウェールズやコーンウォルに移った。その後、ヴァイキングの侵入やノルマン・コンクエストの影響で、ケルト人キリスト教はしだいに衰退していった。
アイルランドでは、6世紀末~8世紀初めに、ゲルマン人をキリスト教化する方針が取られた。アイルランドでのケルト・キリスト教は、9~10世紀のヴァイキングの侵入によって衰退した。
ケルト・キリスト教独特の制度は、12世紀までにヨーロッパからほとんど姿を消した。しかし近年、現代風に調和されたケルト系キリスト教は息を吹き返しつつある。
ケルトの文化
鉄器時代のケルトの銀器 (グンデストルブの大鍋)
神官であったドルイドたちは、その教えを文字にすることは正しくないと考え、口承で伝えたので、全てを暗記するには二十年もかかった者もいた、といわれている。それ以外の記録のためには、ギリシア文字を借用していた。
碑文などの言記表記をする際に後にギリシア語やラテン語を参照にして、ケルト人独自のオガム文字が生まれた。これは4世紀から7世紀頃まで碑文等に表記をする際に使用されたが、基本的には文字を持たない文化であった。後世にケルト人がキリスト教化すると、オガム文字はラテン文字に取って代わられた。
キリスト教化したあとも、ケルト人独特の文化はまったく消滅したわけではない。現代でもウェールズやスコットランドやアイルランドには、イングランドとは異なる独自の文化がいくらか残っている。
ケルト人の分布の変化。
紀元前6世紀頃の、ハルシュタット文明として栄えたケルト人のいた地域
紀元前3世紀頃、ケルト人の最大分布
ケルト人がいた可能性がある、イベリア半島中のルシタニア人のいた地域
近世にある程度のケルト人がいたとされる6つの国からなるケルト国家群
現在ケルト系の言語が広く使われている地域
現代におけるいわゆる「ケルト人」とは、残存するケルト語派の言語が話される国であるアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々である(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。またアイルランド以外のケルト人の国は、より大きい異民族の国家に併合された上、本来の母語の話者が次第に減少していった。
しかし近年、様々なケルト語再生運動がそれらの言語の衰退を止めることを目的として行われている。この再生運動の有効例として、ウェールズにおいてウェールズ語を教える学校が政府から公金を受け、その学校数が増えて来たということが挙げられる。
また文化面では、エンヤの楽曲やリバーダンスなどは世界的に高い評価を受けている。
ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S28が挙げられる。このタイプはもともと非印欧系の集団であったが、印欧語族ケルト語派に言語交替を起こした。ブリテンやアイルランドではさらにハプログループR-L21に話者が交替している。ハプログループR-S28はイタリック語派とも関連しており、イタロ・ケルト語派仮説を支持するものである。
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