遼 Wikipediaより
遼(りょう、簡体字:辽、拼音:Liáo)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。916年から1125年まで続いた。
目次
•1名称
•2歴史
•3名称
建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、本来であれば947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と呼ぶべきであるが、便宜上まとめて遼とする。
歴史
=北宋、遼(簡体字で「辽」)、西夏の境域図。
北宋政和元年、遼天慶
モンゴルの歴史
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに2代耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と南朝宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。
南朝宋の太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り澶淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝金を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥
の東遼などもある)。
と書かれていました。
遼は契丹族です。
契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔で、庫莫奚もしくは室韋と同系になる考えられている。『新唐書』では、かつて匈奴に破られて逃れてきた東胡の子孫とする。
と書かれておりました。
韓国時代劇ドラマ
高句麗滅亡後の大祚栄(テジョヨン)が渤海国を創るに登場する。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。