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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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初午

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初午
 今日は初午である。
初午と言えば、お稲荷さんのお祭りである。
お稲荷さんと言えば、日本の神社・仏閣の中では一番多いお社がある。これらの総元締めは、伏見稲荷、笠間稲荷、豊川稲荷辺りが有名である。 昔、四日市に勤務していたころ、お千代保稲荷にお参りに、行ったことを覚えています。
しかし、稲荷神の出自のいわれは不明である。
 この件について、私も前々から疑問を持っていた。
今回、ユーラシア大陸の少数民族を調べていたら狐氏が出てきた。
そこで、この狐氏を紹介します。

狐毛  (Wikipediaより)
狐毛(こもう、生没年不詳)は中国春秋時代の晋の政治家。狐突(zh)の子。狐偃の兄。文公に仕えて19年間に及ぶ放浪に付き従った。
才気煥発な弟・狐偃に比べて、兄の狐毛は温厚な性格で鋭すぎる弟を抑える役回りであったという。狄の出身であったが、父・狐突によって弟とともに晋の公子重耳に仕えさせられ、以後、狐氏の兄弟は重耳の忠実な側近となった。
重耳が政変によって晋を追われると狄の狐氏の集落にかくまうが、父・狐突が晋に入朝して以来、狐氏は晋と繋がりが強く、狐氏の集落も重耳にとって安全といえなくなってきたため、重耳は僅かな従者たちと共に放浪の旅に出ることになった。
19年に及ぶ放浪の果てに晋に帰国し、重耳が文公となると、狐毛は弟・狐偃とともに取り立てられ、城濮の戦いでは弟とともに晋の上軍を率いて楚軍を相手に善戦した。

狐氏
 狄の人です。つまり、晋だけでなく、周という政体でも外様というコトで、重耳に対してどれほどの功績があっても、文公即位の勲一等は誰かに譲るのが当然の政治的分別でした。実際、狐毛にも狐偃にもその分別は充分ありました。 それでも結局、秦に対する依存心か、外戚としての趙氏に対するライバル意識か、はたまた為政サイドの規定路線か、B621年に趙盾との政争で排斥されてしまいました。
狐突
 文公の外祖父。申生に仕え、申生が殺されると隠棲した。 重耳に随う2子の召還を拒んだため、B637年に懐公に殺された。
狐偃
 咎犯とも。狐突の子。文公の外叔。重耳の亡命に従い、趙衰と並ぶ外戚として尊重された。 B634年の三軍編成では佐上軍とされ、翌年に正卿の郤穀が歿すると趙衰より後任に推されたが、辞退した。 城濮の役で首勲とされた。
狐射姑
 賈季。狐偃の子。B622年に将中軍の先且居ら4卿が歿した為に、B621年の夷の蒐では将中軍に任じられたが、太傅の陽処父(親趙派)の進言で佐中軍に直された。 襄公が歿すると趙盾と継嗣の擁立を競い、陳から召還した公子楽(秦穆公の外孫)が道中で趙盾に暗殺されると、趙盾執政の端緒を開いた陽処父を暗殺して狄に亡命した。 
 B614年に荀林父の提議で帰国の事が議されたが、陽処父の殺害を以て郤缺に否定された。
懐嬴
 公子楽の生母。秦穆公が重耳に娶わせた五公主の1人で、嘗ては圉(懐公)の夫人だった。 襄公の生母は文嬴、霊公の生母は穆嬴で、どちらも秦の公主と思われる。
 たまには、このようなお話もいかがかと思い、掲載しました。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。

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