粟田 真人について
チノちゃんは、数年前から日本書紀の神話部分は、古代天文学で裏打ちされていることは判っておりました。これは高句麗(こうくり)からの帰化人の藤原京へのプレゼントではないかと考えていました。
しかし、粟田真人の存在を知り、調べていくうちに日本の独自文化であることに至りました。その訳は日本の宮中の出来事にも通じているからです。
そして、持統天皇の時代は暗いものと考えていましたが、今では素晴らしい明るい時代だと感じています。
私は、粟田真人を日本書紀、古事記、大宝律令(たいほうりつりょう)の三大書物の総責任者と比定(ひてい)しています。
その訳を下記に示します。
皆さんはどう考えるか、先ずは私の意見を述べさせていただきます。
家系
粟田 真人(あわた の まひと、生年不詳 - 養老3年2月5日(719年2月28日))は、粟田氏(粟田臣)は和珥氏・春日氏の後裔氏族で山背国(やましろのくに)に本拠を持つ一族。
生年は不明。出家して道観(どうかん)と名乗る。
生い立ちと経歴
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和珥(わに)氏・春日(かすが)氏は古代・大豪族です。
10歳前後で、「道観:陰陽五行思想の達人」と名乗っております。
これは後世の人の謚(おくりな)と思われます。
白雉4年(653年)第二回遣唐使船で、留学僧としてして随行し、道昭(どうしょう)に連れられて、定慧(じょうえ)と共に唐に渡り、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に師事する。
この時の生活状況
玄奘は異国から来た若い僧をかわいがり、寝起きを共にして師事したと言われている。
*玄奘三蔵(陳氏の出身、大唐西域記『西遊記』の著者 当時51歳)
*道昭(堺 造船業の息子、相当の金持ちである 当時24歳)
*定慧(中臣の真人、藤原鎌足の長男で弟が不比等 当時10歳、
尚中臣(なかおみ)氏は反仏派である。665年帰国し、翌年亡くなる。)絵
660年、道昭は帰国し、飛鳥(あすか)の地に法興寺を建て、義淵(643から728年)を跡継ぎにしている。
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『粟田真人、中臣真人、義淵(ぎえん)の三人は同い年と思われる』
天武天皇10年(681年)粟田真人は帰国後、還俗(げんぞく)して朝廷に仕え、小錦下(後の従五位下に相当)となる。
正確には不明だが、留学僧として28年間も修行していることになる。
天武天皇13年(684年)朝臣姓を賜与される。
持統天皇3年(689年)には大宰大弐となり、外国からの賓客を饗応(きょうおう)する経験(12年)を積み、隼人(はやと)174人、布50常、牛鹿皮50余枚を献上した。
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この時には、唐の国だけでなく、朝鮮半島の国々や渤海国、インド、
ペルシャ商人などの外国人の取引交渉や文化交流もしていたと思われる。
大宝元年(701年)正月には直大弐(従四位上)民部尚書に任ぜられ、忍壁(おさかべ)皇子・藤原不比らとともに大宝律令の編纂に参画する。
大宝2年(702年)5月に参議に任ぜられ朝政に参加。遣唐大使(執節使)に任命され、文武天皇から節刀を授けられた。同年6月、自らが編纂に関わった大宝律令を携えて唐(正確には武則天「則天武后」が新たに建てた武周である)へ渡った。
随行者
同遣唐使には巨勢邑治が大位、山上億良が少録(きろくがかり)として参加し、道慈らも加わっている、その後の政治的、文化的にも大きな足跡を残すことになる。
真人の意気込み
日本書紀の詳細は別にして完結していたと思われます。
そうしないと、神話部分が生きてきません。
真人としては、相手側を説得する日本書紀において漢風に作成しており建国史としての「天岩戸伝説(ペルシャ天文学)」や大宝律令には自信を持っていたと思われます。
*ペルシャ天文学(古代天文学:詳細は私の天岩戸伝説を参照して下さい)絵
(「天岩戸伝説」を知る人は日本人なら当たり前ですが、この内容が古代天文学と当時の歴史と重ね合わせた神話であることを理解できる人は日本の中でもごく一部だと思います。)
事前提出書類
通常国交折衝を行うのに、相手側に謁見(えっけん)理由の内容を知らせる必要があります。そのため自国の建国神話(日本書紀)と律令(大宝律令)を提出しています。
この時、則天武后は『天岩戸伝説』を見て(神様が登場する)、興味を抱き、近習に調べさせたはずである。この神話がわかるのはごく一部の天文学者である。この神話は夏の大三角の北極星の物語(天文学では傑作中の一つです。)であることをすぐに見抜いたと思われます。同時に、大宝律令に書かれている太極殿の位置がおかしいことに気づきました。絵
「これを一瞬に見抜くとはさすがですね。上には上がいることです。」そこで、からかいついでに特別に麟徳殿での宴の席に招き武后はニヤリとほくそ笑み、自ら謁見に臨んだものと思われます。
謁見時の真人の服装
隋、唐の支配者は鮮卑(せんぴ)族と言われ、正装は歩揺(ほよう)金具を付けて謁見します。「秦の始皇帝や隋の煬帝の服装スタイル」
真人は留学時代と大宰府で儀式の服装も十分知りつくしています。謁見のいでたちも素晴らしかったようです。
「彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾り『歩揺金具』がついている紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。」
とされています。
謁見時の会話
「神とは何か?」、「太極殿とは何か」、
「それでは、大宝律令の書物に書かれている藤原京の太極殿の位置がおかしくはないですか」などの質問があったと思われます。
当然真人はこれらのことは十分理解しています。
建国神話の「天岩戸伝説」に出てくる神は北極星であり、太極殿は天帝の住む場所であることを説明したでしょう。それでは「なぜ太極殿の位置がおかしいのではないか」という質問に対し、あっさり兜を脱いで、天文観測をしていないことを認めたのでしょうか。
実は、真人は藤原京を都城する時に、提案したのですが、日本の重臣達の意見は、陰陽五行説しか知らないため、都城の中央を主張したのです。しかし、真人の主張を入れて北側まで譲歩したのですが、太極殿を更に、朱雀通りより右側(東)に設置するところまでは了解してくれなかった経緯があったと思われます。
そのため、その場で弁解することができず、あっさりと間違いを認めてしまったと思われます。
しかし、謁見時に他国の使者を露骨に馬鹿にすることはしなかったはずです。つまり、則天武后の近習者が案に誘導したものと思われます。
相手側の評価
唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評されたという。武則天からは司膳員外郎に任ぜられた。
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建国神話の内容はペルシャ天文学と当時の日本の歴史を重ね合わせた神話なので、相手側としても理解しにくいところがあったと思われます。そこで、相手側も急遽この神話を理解できる人物を探したと思われます。幸いにもこれを理解する人物がいたことになります。私の推測では原点は玄奘三蔵であり、その弟子と思われます。
そのため、「好く経史を読み、属文を解し」となります。
謁見の質問に対し、「天体の観測をしていないのではないか」という質問に対し、大恥を掻きながら、言い訳もせず、あっさり、
間違いを認めました。
そのため、真人一行は上記の質問に対し、それぞれ、そつなく回答したとされております。そして、「容姿温雅なり」と見苦しい言い訳をしなかったことを現しています。
しかし、これを認めたことは、国使として失格であり、自国の恥を暴露してしまったのです。そのため、帰国後この内容を天皇につぶさに報告し自ら罰を受けています。
その後の対応について、天文学者は真人を高く評価したはずですが、
技術者ですから政治には口出しできなかったようです。そのため、「武則天からは司膳員外郎に任ぜられた」と書かれています。
大した役でもないようです。
則天武后は相手をからかうつもりで謁見に臨んでいますので、真人の行動は相手の意表を突いたことになります。
そのような人物に「司膳員外郎」では失礼に当たると思われます。
当然、真人は幼いとき玄奘三蔵の師事を受けていたことなどおくびにも出していないと思います。
謁見の後、真人は玄奘三蔵のお墓詣りもしたと思われます。
相手側は、有名な玄奘三蔵の直弟子ですから、中国側には大勢の弟子たちがいます。大いに盛り上がり則天武后もビックリしたと思われます。実際は、ごく一部の人にしか連絡はしなかったと思います。
それらのことは、なにも記されておりません。
真人の言いつけで箝口令(かんこうれい)が敷かれたと思われます。
取り敢えず、真人は大国相手に日本の国威を大いに発揚することに成功したのである。
帰国後
大きな衝撃を受けて帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城や律令制の差異を報告し、のちの改革に生かされていく。
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律令において
中国の韓非子(かんぴし)とユダヤ系とは内容が違います。
特に、政治犯に対して、ユダヤ系は寛大な措置が取られており、
島流しや隔離などで死刑はありません。
一般に毒杯や見せしめの絞首刑などを行いますが、律令の運用が違うのです。
太極殿について
真人は中国での醜態(しゅうたい)もつぶさに報告し、自ら罰を受けて、辞職したと思われます。
入唐で得た知識を生かすべく慶雲の改革において、律令制施行直後の体制改革に参画。律令の実情に即した不具合の修正に参加した。
実際の遷都は2年後の和銅3年(710年)。
その後、大宰帥なども歴任(正面殿は正面通りより少し右側に位置しているはずです。)
霊亀元年(715年)には正三位に昇った。
養老3年(719年)2月5日に死去。
藤原不比等の横やり
絵
日本書紀作成に当たっては、藤原不比等の横やり(父・藤原鎌足を悪者にしないように頑張っていた。)が推測されていますが、真人は不比等の兄・定慧(中臣の真人)の親友でもあり、16歳も年上なので、不比等自体がある程度遠慮したものと考えられます。
時代背景
東アジアで、大陸は五胡十六国時代から南北朝時代を経過し、
隋王朝が大陸を統一し、その後を唐が引き継ぎました。
半島は三国時代(百済、高句麗、新羅)から唐の援軍により新羅が統一しましたが、唐の蹂躙(じゅうりん)を危険視し、属国として従った。
その後、突厥(とっけつ)や契丹(きったん)などの周辺諸国が騒ぎ出し、唐政権は半島だけに構(かま)っていられなくなり、手を引いてゆく。
そして、690年には、テレビドラマで有名なテジョヨンが渤海国(ぼっかいこく)を建国し、唐への朝見(ちょうけん)をして認めてもらっています。
そして、唐は朝見してくる国々を属国として認めるようになります。この効果は大きく漢の時代のシルクロードも再開され、更には海のシルクロードも開通したと思われます。
そうなると、ペルシャ人による交易から、東南アジアの交易も広がり、まさに長安の都は地上の楽園と化した行きます。
これらの様子を、真人は留学僧として、又大宰府にて外国人からの世界情報を直に受け取っています。
そこで、粟田真人は、白村江以来の中国との国交断絶を中止し、
日本の近代化のために国交再開の舵(かじ)をきろうと考え、舎入(とねいり)親王を通して、持統天皇に奏上(そうじょう)したものと推察します。
そこには、日本の持統天皇が女帝であり、唐の朝廷も則天武后という女帝であることは大宰府を通じて十分熟知しております。
そして、持統天皇はこれを了解し、国家事業として粟田真人を中心として推進を始めたと思われます。
国交再開の足固めとして、藤原京の建設の準備、建国神話(日本書紀)と大宝律令は対等外交のための道具として作成されたものと考えます。
私の結論
1.日本書紀は中国との国交再開のための国家事業の道具として、作成されたものである。
2.日本書紀の神代紀はペルシャ天文学が根本にあり、その上に当時の宮中の出来事を重ねたものである。
天文学の英才教育を受けたもので、家系的に宮中の出来事を知り、天皇側近で、位の上の者でなければなりません。
3.則天武后との謁見の折、簡単に「藤原京の太極殿の位置がまちがいである」ことを認めています。
帰国後、その間違いをすぐさま実行に移しています。
又、上記の件を天皇につぶさに語り、自ら大使失格として辞職しています。
上記理由により、日本書紀、古事記、大宝律令の総監修者は
粟田真人と比定します。
追記
玄奘三蔵から始まり、道昭、粟田真人と繋がる人材教育は素晴らしいものと思います。
尚太安万侶のお墓がありますが、これはヤマトタケル(白鳥古墳)とおなじとお見受けします。真人は、ユーモアたっぷりですがこのようなブッラクに近いことはしないでしょう。
当時は謚(おくりな)などはありませんから、後世の改竄(かいざん)とお見受けします。
真相究明委員会 敬白