長屋王 Wikipediaより
長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
出自
天武天皇13年(684年)誕生説が有力であるが、懐風藻の記事にもとづき天武天皇5年(676)とする説もある。父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
経歴
大宝4年(704年)無位から正四位上に直叙される。通常の二世王の蔭位は従四位下であるが、三階も高い叙位を受けていることから、天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたことがわかる。和銅2年(709年)従三位・宮内卿に叙任されて公卿に列す。和銅3年(710年)式部卿を経て、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。
霊亀3年(717年)左大臣・石上麻呂が薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議・中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位を占める。この異例の昇進は妻の係累にあたる元正天皇(吉備内親王の姉)と藤原不比等(藤原長娥子の父)という二人の有力者の意向によるものとされる。血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていたことが窺われる。また、元正天皇は即位前に吉備内親王と同居していたらしく、その夫である長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。
長屋王政権
養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の官職にあった房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。
• 養老5年(721年)3月:水害と干魃に起因する貧窮対策として、平城京および畿内の公民に対して1年間の調を免除し、他の七道諸国の公民に対しても同様に夫役を免除する。
• 養老5年(721年)6月:前年度発生した隼人や蝦夷の反乱鎮圧のための兵役の負荷軽減対策として、陸奥と筑紫の公民に対して1年間の調・庸を免除する。戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の租税を免除する。
• 養老6年(722年)2月:諸衛府の衛士の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる[5]。
• 養老6年(722年)閏4月:陸奥按察使管内の公民の調・庸を徐々に免除して、農耕と養蚕を勧奨して、馬と弓を習得させる。辺境を助けるための租税として麻布を徴収することとし、蝦夷に与える禄に充当する。陸奥国出身で朝廷に仕えている者(衛士・資人・采女など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す。
• 養老7年(723年)4月:日向・大隅・薩摩の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に飢饉や疫病が発生していることから、3年間租税を免除する。
また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある。
• 養老6年(722年)閏4月:秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画)。
• 養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法)。
この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している。
• 養老4年(720年)9月:蝦夷の反乱により陸奥按察使・上毛野広人が殺害されると、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・多治比県守と持節鎮狄将軍・阿倍駿河らに節刀を授けた。
• 神亀元年(724年)3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されると、1ヶ月ほどの間に征討軍として藤原宇合を持節大将軍、高橋安麻呂を副将軍に任じ、さらに坂東九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った。
長屋王の変
長屋王墓(奈良県生駒郡平群町)
神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位と同時に長屋王は正二位・左大臣に進む。間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した(辛巳事件)。この事件をきっかけとして長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になってゆく。
また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)は先の霊亀元年(715年)に皇孫として扱う詔勅が出されるなど、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる。
さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、聖武天皇は神亀4年(727年)に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論んだ。しかし、神亀5年(728年)基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系の安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する。
神亀6年(729年)2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。
一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人は外従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった。
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。なお、『続日本紀』によると、翌天平10年(738年)長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。
と書かれておりました。