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Channel: 五千年前の大洪水と先史文明研究ゼミ
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遣唐使

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遣唐使  Wikipediaより
回数
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
•    12回説:藤家禮之助
•    20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数   出発  帰国
使節
その他の派遣者
船数  備考

1  舒明2年(630年)舒明4年(632年)
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
唐使高表仁来日、僧旻帰国

2   白雉4年(653年)白雉5年(654年)
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)
道昭  (629から700年) 27才
定恵  (中臣真人643から606年) 10才
藤原鎌足の長男、弟不比等 
道観(のちの粟田真人 64から3719)    10才?
    道観は後世の謚と思われる。?
 *上記3人は玄奘(43才)と寝起きを共にして師事を受ける。
第2船が往途で遭難

3  白雉5年(654年)  斉明元年(655年)
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使)
高向玄理は帰国せず唐で没

4  斉明5年(659年)斉明7年(661年)
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)
伊吉博徳
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される

5  天智4年(665)天智6年(667年)
守大石(送唐客使)・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
唐使の劉徳高送る。唐使の法聡が来日

6   天智6年(667年)天智7年(668年)
伊吉博徳(送唐客使)
唐使の法聡を送る。唐には行かず?

7 天智8年(669年)
不明
河内鯨(大使)
第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか

8 大宝2年(702年)出発   慶雲元年(704年)帰国
粟田真人(執節使59才)・高橋笠間(大使)
・坂合部大分(副使)・山上憶良(少録42才)
・道慈(俗姓額田氏 西明寺)
701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任に充てられ渡航せず、参議となっていた粟田を大使として出立。701年の出立の際に粟田は文武天皇から節刀を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。また「日本」の国号を使用し、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。
 面会者  周朝 則天武后(624から705年) 78才
9  養老元年(717年)  養老2年(718年)
多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使)
阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
前回の倍以上となる総勢557人。残留した留学生を除き、使節は全員無時に帰還。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。

10 天平5年(733年)天平6年(734年)
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)・平群広成(判官)
大伴古麻呂
帰路、各船遭難し、第1船の多治比広成は種子島に帰着(吉備真備・玄昉)。第2船の中臣名代は唐に流し戻され、唐の援助で船を修復し翌天平7年(735年)に唐人・ペルシャ人らを連れて帰国。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国、南ベトナム)に漂着し抑留されるが脱出。阿倍仲麻呂の奔走・仲介により、唐から渤海国を経て日本海を渡り天平11年(739年)10月27日に出羽国へ到着帰国。第4船、難破して帰らず

11  天平18年(746年)  石上乙麻呂(大使)
停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。

12 天平勝宝4年(752年)天平勝宝6年(754年)
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
鑑真来日。4船が帰路に就く。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂らは帰途で暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着、唐に戻りのち客死。大伴古麻呂・鑑真・吉備真備らを乗せた第2,3船は屋久島などを経由して帰還。帰還に成功したこの2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して従五位下の位が与えられた。

13 天平宝字3年(759年)天平宝字5年(761年)
高元度(迎入唐大使使)・内蔵全成(判官)
藤原清河を迎えるために派遣され、渤海路より入唐も安史の乱のため清河の渡航を止められ、目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国。高元度は唐からの送使沈惟岳と共に761年に大宰府に帰国。

14 天平宝字5年(761年)
仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)
中臣鷹主(遣唐判官)
船破損のため停止

15天平宝字6年(762年)
中臣鷹主(送唐客使)・藤原田麻呂(副使)・高麗広山(副使)
唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
16宝亀8年(777年)宝亀9年(778年)
小野石根(持節副使・大使代行)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)・海上三狩(遣唐判官)
775年4月に任命された大使・佐伯今毛人は11月に大宰府から帰還し節刀を返上。翌777年4月は都を出た時点で病と称し難波津より先に行かず。大伴・藤原両副使は更迭。藤原清河を迎える目的もあったが、小野石根らが長安入りした年に清河死去。第1船、帰途で遭難し小野石根、唐使趙宝英ら死亡。大伴継人や藤原清河と唐人の間に生まれた娘の藤原喜娘は乗船の難破・漂流の後、来日。

17宝亀10年(779年) 天応元年(781年)
布施清直(送唐客使)  唐使孫興進を送る

18:延暦23年(804年)大同元年(806年)10月
藤原葛野麻呂(大使)・石川道益(副使)
最澄・空海・橘逸勢・霊仙
石川道益、唐で没。また、805年の徳宗崩御と順宗即位に遭遇。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
19承和5年(838年)  承和6年(839年)
藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)
円仁・藤原貞敏(准判官)・長岑高名(准判官)・良岑長松(准判官)・菅原梶成(知乗船事・医師)
承和3年・承和4年とも渡航失敗。この過程で第一船が損傷し、大使の常嗣は副使の小野篁が乗る予定の第二船と自身の第一船を交換した。これを不服とした篁は常嗣への不信と親の介護、自身の病を挙げて渡航に不参加。流罪となった。副使不在のため藤原貞敏が現地代行。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船は帰途に南海の島に漂着。良岑長松、菅原梶成は協力し廃材を集めて船を作って大隅国に帰着した。

20:寛平6年(894年)菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)
唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により停止。ただし大使の任は解かれず。907年に唐が滅亡し、遣唐使は廃止となる。
次数は20回説を採用。
と書かれておりました。
コメント
第2回と第8回に注意してください。
今日はここまで、また夢の世界でお会いしましょう。
 


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